日本の武道や芸道には特に型という要素が大きい比重を占めているが、これはよく考えると日本ばかりではない。
世界中の国々にある武道や芸道に見られることである。
型、形式というものは何ごとによらず付随しているものなのである。
人間を例にとれば、肉体は型であり、精神は内容である。
型や様式を無視して、自然の欲求に基づいて自由に表現することをたて前としているとはいっても、そのたて前とするということが、一つの様式、形式、型ということなのである。
武道は、技術的には、相手を倒すことが目的であり、倒そうとする意志が内容となり、型はその方法とか、技術だということがわかる。
とくに空手は、この型というものに重きを置き、型の機能的なことからいえば、相手を倒すための技術を一定の時間にまとめたものであるが、その中に人間の内容、つまりパーソナリティーの修業の意味を持たせている。
型を行なうという行動の中に意識的にそういう意味を持たせたということが、大切な点である。
型は、だから空手の母体ともいえるのである。
空手の型は、大小合わせて約70におよぶが、その中でよく使われているのは、30種くらいのものである。
これらは古い空手家、先生、先輩の長い年月と貴重な体験によって生まれたもので、力の強弱、技の柔剛、気の敏感、等々を、科学的に総合考察して、技の訓練、精神の修養のために完成してきたものである。
基本が空手のアルファベットだとすると、型は単語やその構文に当たる。
実戦や相手は、会話となるとすれば、型というものの位置と重要さがわかると思う。
といって、型をやたらに沢山覚えたからといって組手が必ず強くなるということはいえない。
実戦は相手のあることで、型の仮想敵のように、都合よく相手が動いてくれるわけではない。
いくら単語や構文法を知っていても英会話という実際面では、手も足も出ない人がよくいるように、実戦を型のみにたよってはいけない。
少ない型でもそれを真に身につけることが必要で、身についたものが多ければ多いほどよいにちがいないが、一つの型を3,000回から10,000回行なったとしても約1年はかかるのである。
1度に10回ずつ行ったとしても約1年はかかるのである。
一つの型でもよいから、とことんまで体にたたき込むことのほうが有効である。
型では、技や体の運び、体の動きを呼吸の関係、間合いや技の決め方などを、体に覚えこませるのである。
初心者には、おかぐらか、踊りのようの見えるものだが、同じ約束ごとのくり返しでも、まったくその本質を異にしている。
踊りやダンスは、その体の動きの線自体を美しく見せることが目的であるが、空手の型はあくまで実戦への応用と基礎の完全な修得を目的とするものなのである。
もし空手の型が美しいと思えるなら、それは極度に合理的な機械性を備えているからであり、それは刀剣のどこまでも斬るということを追求した形にそなわっている優美さと同じである。
相手を倒すという目的は人間の機能を生かし合理的な動きの連続であるから型は美しいといえる。
しかし型は人に見せるものでも美しさを誇るものでもない。
あくまでも戦いのためのものである。
最近の空手界には、武道のきびしさを忘れたものが多く、型を体操化したり、覚えた型の数をもって実力と判断したりすることが多い。
空手の型から武道としての迫力とダイナミズムを取り去れば、もはや猿踊りに過ぎない。
大山倍達
●参考・転載
100万人の空手
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